蕎麦の花イラスト

STORIES
よもやま綴り
~ 店主の想い、つれづれに綴りました ~

海の恵みに生かされた仕事

昆布

走採 礼文香深産 15K
現在は2013年物を使用。写真は保存中の2015年物。

 

 今年は、とりわけ厳しい寒さのせいか、天ぷらそば・しっぽくそば/うどん・鍋焼きうどん、のような種物や、かけそばといった暖かいそば/うどんが、例年の冬場にくらべ沢山ご注文を頂きました。これらの味のベースになっている汁は、弊店の「かけ汁」です。かけつゆは節類と昆布で引いて、醤油・砂糖・味醂が調合されます。もちろん添加物は一切入れておりません。蕎麦切りあるいは蕎麦文化は江戸時代にその礎が築かれ、今に繋がっている食べ物です。江戸前と呼ぶにふさわしい、寿司・天ぷら・鰻などと同じように江戸時代から続く、我々の味覚に深く沁み込んだ、江戸の食の一端に連なる食べ物です。その関東の「もり汁」は基本、上記のかけ汁とは異なり、本来昆布は使われません。弊店も四十年前は、かけ汁を作ることなく、もり汁を二番出汁で割って使用していました。

 その後、京都の鰹節商社のNさんと出逢い、関東のかけ汁の極意、とりわけ昆布の使い方を教えて頂いたことが、弊店のかけ汁づくりの始まりでした。昆布の表面の白い粉の様にみえるものは、マンニットという「うま味」成分であること、昆布を引き上げるタイミングは、昆布に爪がスーと入るようになれば大丈夫、等々他にも。

 二十数年前の店舗の建て替えと物置の引っ越しのなかで、昆布人束20K(利尻系香深浜産2等)が物置の北側に置かれたままになり、整理して気づいた時は、刻印された採取年から7年が経過していました。昆布ひとつひとつの表面が白く、粉が噴いたその昆布を使ったところ、今までの昆布とは全く違う、奥深い、口の中で味が拡がるような、かけ汁が引けました。“老舗の料亭の主人が、特別に選んだ昆布を三年寝かせて使っています。〜伏木 亨 著 おいしさを科学する〜より” のような話は、Nさんから度々きかされてはいたのですが、この7年物の“ヒネ”の昆布を使った時の衝撃的な味わいは今でも忘れられません。たまたまヴィンテージ(収穫年)物だったのか、あるいは保管場所が昆布の熟成に適した場所だったのか。それ以来、五年枯れを目標に寝かせておりますが、今もってあのような昆布には巡り合っておりません。置かれた環境と時間経過が、昆布の“硬い繊維を少しずつ解すことで、昆布が本来持つ旨味が現れてくる”のか。

 私の経験知では、1束の中でも、それぞれ“若い感じ”ー“熟した感じ”など、色々な気がします。海の恩恵に育まれた昆布。その滋味にい生かされた、弊店の「温っかメニュー」を、お試し下さい。弊店の「もり汁」については、市内和食店のオーナーシェフMさんのブログから、「汁は、サバ節がちのコク深い、江戸前の味」との御評価を、ここに紹介させて頂きます。

 今から五年前の晩秋、友人二人と京都の老舗料亭を訪ねました。そのおり、三人が、たまたま浄土宗門徒であったことから、総本山千代院に参拝いたしました。長野へ帰ったところで・・Nさんの訃報がもたらされ、翌一年後、お宅にお線香をあげに伺ったさい、ご家族から宗派が浄土宗であることをお聞きしました。Nさんが亡くなった3日後に千代院の本堂で、お焼香したということは、Nさんとの魂との友誼に、我々三人が、人知れず呼び寄せられ、交感したという、ことなのでしょうか・・・人の繋がりの縁(えにし)の不思議さと、その深さを覚えずにはいられませんでした。

高台寺

高台寺 2013.12.2

蕎麦の自家碾きは、むずかしい

抜き蕎麦

地下冷凍庫に保管された"抜き蕎麦"三種類

 

 蕎麦屋の朝は早く、そして忙しい。とりわけ夏は、早朝の涼しい時間に「そば」を打つ。暑くならないうちに翌日分のそば粉を碾く、あるいは、2日・3日先を見越してそば汁を引く。日によって、朝仕事はそれぞれですが、繁忙期は「そば」を打つ日が多い。ひと仕事の後、朝食になります。食後は、コーヒーを淹れ、その後、打ち場に入る前の、ほっと一息の時間です。豆がある時は、ミルを手回しして中挽きにします。珈琲豆を手挽きする時の感触は、とても心地良い感触が掌に残ります。美味しさにこだわるというよりも、ガリゴリという音であったり、珈琲ならではの香りに、癒されるひと時なのかもしれません。

 20年前から蕎麦の自家製粉を始めていますが、残念ながら、そば粉は電動の石臼で碾くので、その体験はありません。ちなみにミルは右回しですが、石臼は左回り(時計の針と反対回り)です。自家碾き粉は、粉屋さんから配達のそば粉とブレンドして打っており、ブレンドすることで、それぞれの良い部分を互いに補い合い、その持ち味を生かすためです。
 振り返れば、始めの何年かは店の新築開店も重なり、試行錯誤の連続でした。石臼と蕎麦の関係を十分に把握した弾き方が出来なかった為、その間、お客様に満足のいく「そば」が提供できない日々がありました。『粉は、粉屋にまかせろ』との先人の言葉が身に沁みた時期もありましたが、ここ十数年は、当時の徒労感が、無駄にならなかったと自負しております。

“大正の初期までは、ほとんどの店(東京)がそれぞれに「臼湯」をかまえ、石臼と篩(ふるい)で製粉していた”と、食品出版社 藤村 和夫 著 『そばの技術』の中に書かれております。また、“昔は、臼屋という専門の職人もいた”との記述もあります。
 そば切りの発祥の場所や年代については、諸説さまざまありますが、発祥と伝播を支えた石臼については、最近まで識ることがありませんでした。
 その歴史については、〜三輪茂雄 著『ものと人間の文化史 粉』法政大学出版局 刊〜に詳しく記述されているので参照していただきたいのですが、鎌倉時代に中国から伝わったとされる石臼が、その後の世の中で、様々に利用され、生活に生かされ、社会と文化の発展に寄与したことに、眼を開かされました。「そば」も捏ね、延し、切り、の手打ち作業も然ることながら、製粉作業が重要であり、そのポイントは石臼です。そば粉も石臼によって、その味わいが大きく左右されます。
 弊店では、碾き抜き(抜き実)、割り抜き、抜き割り、それぞれ三種類を、季節により割合を調節したり、篩(ふるい)を替えたり、あるいは夏場に碾く、抜き蕎麦を冷凍保存したりと、様々に工夫を重ねてきたことで、石臼での自家製粉を始めた頃に比べれば、格段に美味しい「そば」に仕上がっていると思います。
 以前は、夏場に関して言えば、冬に粉屋さんが碾いたそば粉を冷凍保存して、夏場に使用したこともありましたが、現在は、冬に抜き蕎麦を冷凍保存し、夏場に自家製粉し、粉屋さんから届けられたそば粉とブレンドして打っています。
 冬場に、そば粉を冷凍保存し、夏に使用した場合と、冬場に抜き蕎麦を冷凍保存し、夏に自家製分した粉とでは、それぞれ食べ比べてみると、後者の粉のほうが、だいぶ味の良いことが会得できました。かつての、蕎麦と石臼に対する理解や見識が、不足していたが故のさまざまな試行錯誤が、経験として積み重なり、現在に繋がっているものと考えております。

 毎朝のそば打ちは、前日の「そば」の出来具合をそれぞれ振り返りながら、粉を目方で計量し、加水量をグラム単位で微調整し、水まわし、捏ね、延し、を進めながら、次の加水量を図ります。30年前、地下室に打ち場を設けて以降、適度な涼しさと湿気が保たれるので、夏場の蕎麦麺としては、悪くはないと思っております。
 昔、そばを打ち始めた頃の課題は、夏場にも秋から春に打つそばと同じような「そば」を、打てるか・・・でした。その後、冷水機の活用でだいぶ改善はされました。また、打ち場を地下室に移したことで、外気に大きく左右されずにすむ環境と、そば粉や抜き蕎麦の安定的保管、さらに加水用の水も、室温になじんだ一定の水温で加水できること等々、他にも、いろいろな効果がありました。
 ただ、体が少し冷えるのが、歳を重ねた身には堪える、この頃です。

 おそらく100年から80年くらい前まで、当家で使われていただろう石臼二組。安山岩の石面が6分画の石臼で、目はほとんど消えかかっているのですが、上臼と下臼が重ねられて、今は、店の正面右手、大暖簾の下、両脇に、留め具としてつかわれています。 

大暖簾

店内に使用された欅(けやき)材

欅の伐採

欅の伐採

 

 街場で 蕎麦屋 を営みながら時として、、、昔の暮らしへの憧憬と、そのこころ覚えの標(しるし)です。
 当家は50年ほど前までは、村里と里山の中間ぐらいの棚のような不便な処にありました。とは言っても、15分も歩けば村内とつながり、30分で隣町に行ける場所にありました。菩提寺を含め6軒で集落をなし、春夏秋冬それぞれの季節が、時間とともに移ろい感じられる様な、閑静な場所でした。家跡も含め集落の3軒には、母屋とは別に大きな二階建ての蚕室がありました。たぶん養蚕が最も盛んだった明治末期か、大正初期に建てられたのではなかったかと推測します。毎年、味噌を仕込み、秋の漬物、干し芋は蚕室の床に、干し柿は二階の軒先に簾のようにいっぱい吊るされました。年末には幾臼もの、のし餅をつき、他に豆もち、きび餅などもついていました。
 先代は農家の五代目として生まれ、夏は農作物、冬は、戸隠から炭焼き職人を雇い、新炭を生産し、薪などと共に燃料店へ卸していました。1960年頃から、薪、薪炭の需要が減少してきた為、それまでの、農業と林業での生計をたたんで、食堂をはじめたのが、1969年のことでした。食堂の営みも落ち着いた1970年代後半から、蕎麦屋の仕事の合間に、畑仕事と山仕事をこなす様になりました。
 山仕事は主に、スギとカラマツの林の下草刈りと、茸の原木栽培でした。荒れていた山畑には、森林組合にスギやヒノキの植林をお願いし、下草刈りは自ら作業しましたが、枝うち、間引き等は森林組合に委託していました。ただ、今はそれら木々も・・・。
 その頃から、将来の店の新築に向け、我が家の山にあったケヤキを、葱畑で保管していました。ケヤキを選んだのは、耐久性が高く、湿気にも耐えることを経験的に知っていたのかもしれません。ケヤキは硬く、そして捩れやすいため、じっくり乾燥させながら用材としての狙いを、最小限にするためでした。丸太としてのケヤキを粗引きし、粗引きされたケヤキを寝かせて、さらに暴れを鎮める。それは、風雪に耐え、その場に屹立してきた樹齢の高さに対する、鎮魂とも言うべき時間なのかもしれません。
 樹は伐られ、使われることで命が宿り。木としての歳月を送るという、再生と循環を生きます。当店でも、古い店で大国柱として使われていたケヤキが一柱、店内の奥に使われております。よく見ていただくと、旧店舗改築の際の小さな釘穴がいくつか数えられます。

かつてケヤキ製材に関わった二つの木材会社は、今は廃業してしまいましたが、そこで粗引き、製材されたケヤキは、他の木材とともに、 店 のなかで生き続けております。

欅の伐採の様子 欅材伐採リスト

I先生の御品書き

I先生の御品書き

I先生の御品書き

 

 ただ、ひたすらに生き、彷徨していた二十歳の頃、店のお品書きを描いて頂くことから始まったI先生との出会い。今から思いかえせば世間知らずの私を、人生の先輩として、折にふれ諭し、時に厳しく接してくれた先生は、その後、私の人生の窓を開けてくれた様な人でした。物識りで多趣味、それらの趣味を継続していたことから、教えられることが数多くありました。その出会いがなければ、また違った生き方になっていた気がします。もちろん、父親の始めた食堂の仕事を継いでいたことに変わりはなかったとしても、その後の人との関わりが拡がった気がします。時代背景や世の中の変化、世情の流れといった影響もあったかもしれません。物事を経験し、積み重ねることで、人との関係性が繋がっていくことにもなり、それまでの狭い世界から自分が解放されたような気持ちでした。そして、それまでの生き方も含めて、「自分は自分」でいいのだと思える様になりました。

 蕎麦屋の仕事と生活の追われた私は、趣味が多かったI先生の暮らし方に憧れはあっても、同じ様にはできませんでした。手が届かない存在であるからこそ、憧れは、憧れとして私の中であり続けるのかもしれません。けれどそれは決して、お金を使って楽しむ様な遊び方ではなく、生活と暮らしの先にあるもっと奥深いものでした。日々の日常を愛し、楽しんで、豊かに生きようとする姿勢そのものが、『遊び』として見え、憧れに想えたのかもしれません。
 ただの蕎麦職人の私には、『遊び』を持ち続けている人に、、そこから生まれる強さを感じ、畏敬の念を覚えることすらあります。たぶんそれは、仕事に忙殺されない、遊びという「心のゆとり」が人を、飾らぬ、それでいて力強く、心豊かな人柄にしているのだと思います。

 出前用のメニュー作りの際、I先生が参考にしたのは、その頃先生のお宅で愛読していた『暮らしの手帳』でした。何冊か取り出してきて、パラパラとめくりながら、一冊の目次に目を止めました。それは、下半分だけが、白茶色の目次で、黒文字の中に、茶と緑の文字をアクセントに用いた、とても綺麗なページに仕上がっていました。『よし、これを拝借しよう』と言って、献立表の構成をまとめ、画用紙を白茶の紙で包み、茶と緑の絵の具を使い、毛筆で書きあげました。その手書きの献立表は、平凡な食堂のメニューには似つかない、味わいのあるものでした。山と、蕎麦の花をあしらった、遊び心のある献立表を、描いてくれました。

 その後、献立表は、昔ながらの蕎麦屋のお品書き専門店、看板用文字の専門店、あるいは印刷会社にお願いしたりと、移り変わってきました。パソコンの普及やデジカメの進化に伴い、写真メニューを自分で作ったりと、様々に工夫して来ましたが、その基には、先生の献立表作りをまじかで見てきた経験があるのかもしれません。
最近思うのは、店内には色々な文字・絵・写真のお品書きが在り、それらは店の営みの証でもあるのです・・・。さて、『どうしたものや、の〜』

創業当時のお品書き

「日本酒銘柄」の話

日本酒ラベル 日本酒  

 平成9年の新築オープンより、純米にこだわったお酒の品揃えでお飲みいただいてきました。純米酒こそが本来の日本酒であり、また、美味しく飲み続けられ、体調が悪くなることもありません。ただ、冷酒も燗酒もそれぞれに美味しいのですが、燗酒の方がより体に優しく感じられます。

 当店では生酒以外は、冷でも、燗でも、美味しく飲めるお酒の品揃えをしてきたつもりです。『冷よし、燗よし、燗冷まし良し』が、銘酒のあるべき条件であるとするならば、私の数少ない純米酒体験の中でも、その両方を満たす純米酒は、本当に少ないと思います。
 昨年12月、長野市の映画館「シネマポイント」で、オムニバスドキュメンタリー映画『一献の系譜』という、日本酒醸造のひとつの流派である、能登杜氏の方々を活写した作品を鑑賞しました。能登杜氏四天王と云われる、「中三郎」さん、「三杯幸一」さん、「農口尚彦」さん、そして「波瀬庄吉」さん。
 心身をけずりながらの過酷な酒造りのプロセスは、観るものに、お酒を飲むとき、襟を正さずには居られない様な、気持ちにさせるものがありました。ただ酔うために飲むのではなく、味わって、楽しく、感謝して、飲みたいものだと改めて思いました。
 長年、「開運」の土井酒造さんで杜氏を務められた波瀬庄吉さんは、平成21年に亡くなられました。その年、「開運・波瀬庄吉作」は早くに品切れになったと聞きました。当店では、新築初期より「開運」の特別純米をお飲み頂いてきました。長年、店で提供しつつ、好んで飲み続けてきた者の感想としては、波瀬さんが亡くなられた、翌22年の「開運・特別純米」は本当に美味しく頂きました。蔵人の方々の並々ならぬ意気込みが伝わるような、お酒でした。
小泉武夫さん編著『食の堕落を救え!』の、波瀬さんと土井酒造さんを紹介する本の中で、『良い酒を造るための環境、設備にはどんどんお金をかけますが、 -中略- 宣伝はほとんどしません』と言う、蔵元さんの姿勢に、改めてうたれました。
 当店で扱う日本酒の蔵元さんも皆、その様な姿勢で醸造されると共に、酒造米にも、拘りを持ちながら造られてるのが、瓶の裏ラベルを拝見するだけで、垣間見れます。
 4月以降、「開運・特別純米」のご提供は、当店の在庫の限りで、終わりとさせていただきます。今まで、「開運・特別純米」をご愛飲して頂いたお客様には、誠に申し訳ございません。今後は、地元信州の二銘酒と、新潟の一銘酒、石川の一銘酒と、それぞれの地元で好まれ、飲み続けられる、四名柄の日本酒メニューとなりますが、よろしくお願い申し上げます。
 先月、東京世田谷の『お料理 春草』さんでここ何年か話題の「獺祭 純米大吟醸」を頂きました。わずかな香りと、きれいで柔らかい飲み心地に、お料理と相俟ってとても美味しく味わうことができました。評判の銘酒を、値頃にまた丁寧に保管しつつ、涼冷え位の丁度良い冷え加減で出された、お店にも感謝でした。

〆張鶴暖簾

今年の信州産新そばは、とても味が良く

蕎麦の抜き実

信濃町産 抜き実

 

 今年の信州産は、大変な不作で、産地や農家によっては七割減にもなっていると、製粉会社の方から聞いております。花は多かったのですが、結実しなかったと言うことで、要因はいろいろとある様ですが、一番は八月下旬から九月上旬の天候の影響があったのではないかと言っておられました。実入りが悪く減収したわりには、今年の信州産新(上伊那産・18日入荷)は、とても味が良く、実入りが悪く減収したわりには、今年の信州産新(上伊那産・18日入荷)は、とても味が良くまた打ちやすくもあり、長年使用している中でもかなり良い新蕎麦と思います。

 北海道産新は9月29日の入荷となりましたが、今年の北海道産はとりわけ美味しい蕎麦です。当店では自家碾き用のヒネ粉の在庫があった為、全てが北海道産新に切り替わったのは、10月上旬でした。毎年のことですが、昨年の粉に、3割、5割、7割と新蕎麦の割合を増やしながら、今年の新蕎麦の手触り、指先や手のひらのふれる触感や、延している時の麺帯の表情を見ながら、作柄を吟味し、加水量を調整しつつ、打っております。

 毎年感じることですが、入荷直後の新蕎麦は硬めでコシが強く、のど越しも「ザ・新ソバ」という感じです。味わいもアッサリしてしまうのが気になるのですが、でもそれが新蕎麦の特徴であり、それこそが新蕎麦だ、と言ってしまえばそれまでのことですが・・・。ただ、日にちが経つにつれ3週間もすると、新蕎麦の口ざわりを残しながら、少しずつ味がのって美味しくなってくるのが、面白いというか、楽しみでもあります。

 信州の地で、そばの花の咲いている地域画の頃9月中に「新そば」が売り出されることへの違和感を覚えるのは、毎年のことです。かと言って昨年の蕎麦粉だけで打つよりも、北海道産新がブレンドされることで美味しくなるのも事実です。蕎麦屋を営むものとして、年間を通して、できるだけ均質な蕎麦を味わっていただく様に心がけていますが、なかなか難しいことです・・・。

 11月19日から22日までの間は、北海道産新と上伊那産新のブレンドとなりました。23日からは上伊那産新のみで打っております。12月上旬から下旬までは、上伊那産新と信濃町産新のブレンドになります。
 今年の信濃町産は、信濃1号から新品種「ひすい」に栽培が変更されております。

新そばの暖簾をかけた店先

石臼の目立て作業

 例年よりも一週間ほど早く、今年は信濃町産新蕎麦で12月中旬までのご提供となります。 自家製粉用石臼の目立ても10月末に済み、新蕎麦のわりには、深い味わいの蕎麦に仕上がっているものと思います。

目立て作業の様子1 目立て作業の様子2 目立て作業の様子3 目立て作業の様子4 目立て作業の様子5 目立て作業の様子6 目立て作業の様子7 目立て作業の様子8  

 目立て作業の後、上下の石臼を擦り合わせ空碾きが行われるのですが、その時発生する合う石音は、高いとても良い音色の様に聞こえます。石それぞれに個性があり、合石しても音のでる石、でない石、様々あるようです。同じ様に石臼で碾いた粉も、石臼一つひとつがそれぞれに異なる為、同じような粉には仕上がらず、石臼の個性がそば粉の微妙な違いとなって現れます。
 目立て作業をして頂いた職人さんの話では、当店の石臼は最近ではなかなか見かけない良い石臼だとお聞きしました。

昔の茸そば

 abnステーション(長野朝日放送)で10月19日(金)に当店の「茸そば」が紹介されました。放送でも取り上げられた、先代からの『 茸そば 』にまつわるエピソード。

原木栽培の様子1

茸の原木自家栽培 その1 H9.11.10 撮影

原木栽培の様子2

茸の原木自家栽培 その2 H9.11.10 撮影

 弊店では、6年前先代が他界するまでの20年以上、原木自家栽培した茸を使った、「茸そば」「茸のおろしあえ」が、お品書きとしてあり、お客様に好評でした。
 主には、ヒラタケ・クリタケ・ナメコ・シイタケを原木栽培し、ある一時期には、タモギタケも栽培していました。クヌギ・ミズナラ・クルミ・クリなどの落葉広葉樹を伐採し、玉切り、それぞれの菌をもつ種駒を打ち込み、2年位日陰の湿気のある地面に寝かせておくことで、枯れた原木に菌がまわり、温度や湿度などが好条件になることで、茸として成長したものを収穫しました。収穫時期は、10月下旬から12月上旬の2ヶ月間に集中しました。量も多かったので、煮て塩漬けにし、使用する時に塩出しをして調理しました。
 原木栽培したヒラタケは、旨味と香りがありました。クリタケは、くせがなく歯ごたえがよく、また傘のひらいたナメコのあの美味しさ。大きく肉厚のシイタケの旨さと、タモギ茸の煮汁のやさしい味わい。茸そばだけでなく、「茸のおろしあえ」も、お酒のお客様には大変喜ばれました。
 採ってきたその日のうちに、大きな鍋で煮て(---翌日まで持ち越してしまうと、腐食した木の葉などが、なかなか取れなくなる為---)汚れや虫などを取り除き、それぞれの茸が混ぜられて、甕(かめ)に塩漬保存したのでした。もちろん、天然の茸が採れた際も、一緒に甕に塩漬されました。
 先代が亡くなった後、原木栽培の茸ができなくなり、茸そば・茸のおろしあえは、封印してやめた訳ですが、その後の経過は、平成23年夏号のマイコファジストに紹介されたとおりです。

 しかし、今更ながら覚えるのは、そば屋家業のかたわら、山仕事、畑仕事、養蜂など圧倒的な仕事量をこなしながら築きあげた、先代の多彩な技の存在です。山仕事に限っても、原木の伐採、運搬、種駒の打ち込み。何箇所かあった、それぞれの異なる原木の見回りと、その管理。しかも、数年も過ぎると新たな原木に種駒を打ち込まねばならず、同じ場所に原木を運び込むか、あるいは原木のある場所で栽培するのかの、どちらかでした。そんな繰り返しを20年以上続けながら、山林の杉や唐松の手入れを含め、一人で黙々と楽しみながら行ってきたのでした。そんな先代の茸の原木栽培の姿を見続けてきた想いが、新たな「茸そば」の誕生へと、女将の背中を押したのかもしれません。

店の裏庭の片隅にひっそりと鎮座する五斗甕(ごとがめ)

 今、役割の終わった五斗甕(ごとがめ)が2本、店の裏庭の片隅に、ひっそりと鎮座しております。竹で編んだををかぶり、庭水用の雨水をためております。
 現在は、かつての原木栽培のきのこではなく、菌床栽培のきのこの「茸そば」ですが、原木栽培、菌床栽培どちらの茸そばもその良さがでており、それぞれに私には美味しいと言える、想いがあります。

「祝凧」の話

 出雲大社へ参拝と出雲そばを味わう旅で買い求めた「赤い鶴」と「黒い亀」の珍しい凧の話です。

赤い鶴と黒い亀の「祝凧」

赤い鶴と黒い亀の「祝凧」

 平成6年5月、仲間と出雲地方を訪れました。出雲退社への参拝と出雲そばを味わう旅でした。YS-11の機窓から眺める、大山国立公園のゆるやかに拡がる裾野の美しさに、みとれました。
 日本最古の神社の一つとされる出雲大社の大きな鳥居を潜り、深い緑に囲まれた社殿の佇まいは、今も、遠い記憶の中に美しく残っています。出雲大社は縁結びの神様として有名ですが、また「屋敷神様」でもあります。当時弊店も新築を予定していましたので、祈念お願いしました。棟上の節、賜った「きよめの御砂」を敷地に埋納し、「出雲屋敷御祈祷」は神棚に戴いております。

高橋祝凧店

高橋祝凧店

 赤い鶴と黒い亀の「祝凧」を販売していた高橋祝凧店は、出雲大社の大鳥居を出たすぐ近くに有りました。結婚祝や新築祝などの贈答品として用いられていると聞き、とても珍しいので、形に残る旅の思い出にと一組買い求めました。
 出雲の伝統工芸品ともいえるこの「祝凧」は江戸時代は元禄のころに始まったとされます。有名な新聞に掲載された『郷土玩具の記事』によると、「出雲大社本殿の背後には左に宮司を世襲する千家国造家の鶴山と、右に北島国造家の亀山がある」とあり「両家に出産の祝い事があると、門前町の町民が千家は赤の鶴文字、北島は黒の亀文字を書いた凧を揚げた」と書かれています。記念にと求めて、以来店内に飾ってあるこの「祝凧」も、出雲大社の宮司家を象徴していたのかと、改めて感じ入りました。
 泊まりは、奈良時代初期に開かれたと言われる玉造温泉の長楽園。こちらの温泉は大露天風呂が有名で、確かに広々としてとても気持ちの良い露天風呂でした。今は、どちらのお宿も個性的な露天風呂が多いのですが、さすがあの広さは圧巻です。頂いた料理で印象的に覚えているのは、スズキの奉書焼き(和紙の包み焼き)、お酒は「国暉」だったと記憶しています。宍道湖で採れたしじみ汁もとても美味しかった。
 翌日は、松本そば店で出雲そばを頂き、途中「豊の秋」の蔵元に立ち寄り、出雲の味のお土産にと、純米酒を買い求めました。出雲そばの印象については、また別の機会に譲りたいと思います。

「しっぽくそば」の話

30年以上前に店内に掲示されていたメニュー板

 写真は30年以上前、店内に掲示されていたメニュー板の1枚です。
 弊店の開店当初から「しっぽくそば」はお品書きに載っていましたが、いつの頃からか細々と品書きの隅に載っているだけになっていました。江戸時代から続くそば屋の品書きのひとつ「しっぽくそば」が、ただ昔からの品書きとしてあるだけで、私の気持ちの中でも消えかかっていたのかもしれません。

 そんな中、平成17年秋から始まった長野市の観光キャンペーン『そば歳時記』の一環として、「しっぽくそば」の見直しが図られることとなりました。
 『東京のそば屋の品書きから「しっぽく」が消えて久しいと言われています。長野でも扱う店は少なくなりましたが・・・』と、しっぽくそばを古くて新しい「寺町そば」として、復活することとなりました。“長野に名物蕎麦を”という意気込みで、具材4品は統一しながら、その他3品前後は各店のアレンジでということでした。そして、長野麺類共同組合内の参加17 店で販売が始まりました。

 柴田書店刊「そば・うどん百味百題」によると『そばの品書き基本はほぼ、江戸時代に鴨南蛮・親子南蛮・小田巻 ---中略--- これらの品書きの中で現在、ほとんど見られなくなってしまったものは「しっぽく」である。』と記されています。確かに、長野のそば店ではみかけても、他の地域ではあまりみかけない品書きになっていました。そもそも「しっぽくそば」は、長崎の卓袱料理を温かい蕎麦に真似たところに、その名の由来があります。卓袱料理とは、長崎市思案橋の料亭 松亭さんの書冊によると『貿易にきた中国人の中国料理と、出島に住む人々の珍しい料理に、和風の良さを加えて、独特の「ながさき・しっぽく料理」』になったそうです。
 さまざまな具を盛り込むことをまねた「しっぽくそば」は大いにもてはやされたが、「おかめそば」の出現で影が薄くなったと伝えられます。しかしここ長野では「おかめ」は流行らず、「しっぽく」がしっかりと根付いて、戦後もお客様に支持されてきた歴史がありました。

当店のしっぽくそば

当店の「しっぽくそば」

 そんな古くて新しいそば「寺町そば」が誕生して6年。長野の蕎麦屋では、店それぞれの「しっぽくそば」をお客様に味わっていただくために日々励んでおります。